6/6(月) 参加者=坂戸真紀子、森下保、こもだまり

30分遅刻で参加。予告したら待っててくれたので、一緒にフロアを始める。
このメンバーになると最近は、じっくり研究色が強くなる気がする。
といっても無駄話をしてるわけではなく、感触を言語化しながらフロアをするという感じ。

坂戸が「まりさんが稽古日誌に書いてたんですけど、contractionを入れる時は、球体の・・・」と言い始めて、私はそれをいつ書いたのか全然思い出せなかった。
今の私の旬は鎖骨だったので。何日か前に書いた、「鎖骨と上腕骨が繋がっているのを意識してすると、腕が胸の中心から生えている感覚が実感になる」という発見。早速ふたりにも伝えて、フロア続行。
保さんはなにかが腑に落ちた様子。
私は、私の身体に搭乗して操縦してるという風に思う時がある。
モビルスーツなら入れ替え可能だけど、残念ながら私の身体に乗れるのは私だけだし、私が乗れるのは私の身体だけ。他の人の身体にも乗って見られるなら、「ああ坂戸、ここはこういう感じだよ」とか「この部分は私より柔軟だね」とか比べられるのに、と思う。
保さんの身体では、鎖骨を意識して何かしたら、何かがピンと来たらしい。それは言語化してもらわなければ伝わらない、微妙な身体感覚(操作感)なのだろうけれど。
そうそう、今読んでいる『身体から革命を起こす』(甲野善紀・田中聡)に関連事項が出てきたのを思い出したので引用。

科学的な合理性で考えられたトレーニング法は、身体にとっての合理性とは一致しない。生きて、はたらく身体にとっての合理的な動きは、はたらくなかで見出されるものであり、それは感覚として獲得される。その感覚で動けるようになることを、甲野は「身体の装置化」と呼んでいる。
(ここで、ノミを使って柱に穴をあけるのを専門にしている職人が、ノミが跳ねて太腿に大怪我をすることがあった、という例を挙げ、これはよほどの高速でノミを扱っていなければ起こりえない、と言って)
「つまりナマ身の動きがまるで電動工具のように自動化されていたからこそ起こったことだと思うんです。ですから、簡単な道具で実際に自分の手足を動かしていながらも、まるで機械を操縦しているような感覚だったのでしょう。たどえばブルドーザーで重い土砂を運ぶ時に、運転者は操作をするだけで、力をこめたりしませんよね。それと同じように、装置化された身体を間接的に操作していたのだと思います。(略)ほんとうに身体を使いこなせるようになるというところに、感覚の追及があると思うんです」


はたらく身体の合理性についてはCavatinaも言っていた。彼女は「生活のからだ」と表現していたが、甲野さんは、毎日続けてする必要のある作業を少しでもつらくなくするように試行錯誤してできていく身体の操作法、そこには無駄な力みがない、という。

先日の日誌につなげていうなら「キャベツの皮を剥くように(Cavatina談)」機械の錆をとって可動性をあげて、かつ操作する側の操作の感覚を磨いていく、ということだ。

甲野さんはピナ・バウシュとヴッパタール舞踊団が2003年来日したときに招かれてWSをしに行ったと言う話も載っていて、驚いた。
だけど、モダンダンスと甲野さんの言う身体操法は、(これだけCavatinaとの感覚に響きあう点があることも理由のひとつとして)相反しない予感がしている。
甲野さんを紹介してくれたのは保さんだったな、保さんありがとう!

もっとたくさん引用したいけど、それはもう少し研究してから徐々に。
話を稽古に戻す。
鎖骨と腕の繋がりを意識してフロアを進めていたら、腕を開いているcontractionから、腕を下ろしたcontractionへの移行で、まるで鎖骨が、さっきまで開いていた腕のミニチュアのように感じた。鎖骨ってほんとにうでの一部なんだ。鎖骨のところに小さい人がいて、そこでさっきまでの腕を開いたcontractionをやってるような感覚。