幸田文の小説『きもの』を読んだ。
大変なお気に入りになった。
きものの好き嫌いを軸にして、事物の捉え方を決めて行く主人公の「るつ子」と、一緒に行きているような、見守っているような気持ちになる。もしかしたら語り手は「るつ子」なのだけど、私の視点は「おばあさん」と「るつ子」を行ったり来たりしていたのかもしれない。
成長の過程で性格や考え方の相違から気持ちの齟齬なんかを持ちつつも、家族に対する愛情は決して失う事がない。家族のうち最年少の「るつ子」と最年長の「おばあさん」のふたりが、家族を束ねているのが心地よい。無条件の愛情。理由は家族である、というだけの。もちろん、他の、父や母や、兄、姉二人それぞれがそれぞれの役割を果たしているからこそなのだけれど。
読み進みながら、「るつ子」が獲得していく <目> を、一緒に与えられているような感覚で読み進んだ。
自伝的小説と言われており、家族構成などは違えど、「るつ子」はほぼ著者自身と見られている。
ものすごくよく見て、感じている。家族の一挙手一投足や、布の手触りや、空気。
世界にはこんなにも受動できるものが存在するのかと、自分の鈍さを思い知る。
全感覚を開いていることは、それだけ傷つく機会も増えるということで、とても危険なのに、るつ子はいつも、惜しまず全開なのだ。
さて、前置きが長くなってしまったが、なんということはないシーンなのに、読むうちにぽろぽろ涙が出て、これは絶対に抜き書きしておかなければならない、と思った箇所を転載する。
それは上の姉の結婚式の日のことだ。留守番を自ら引き受けて、家で必要な様々な用事に忙しく立ち働いているるつ子が、姉の支度をみたあと、完璧な着付と化粧でありながらも「どこか姉らしくない」「もっと美しくていい筈だ」と考えて、おしろいが白すぎて老けて冷たく見えるのでは、と思い至り、慌てて平服(どころか家事をしている格好)で式場に駆けつけ、姉のお色直しの控室に行く、そんなシーン。
(以下、本文より引用です)
「どうしたの、るつちゃん。そんななりのまんま慌てて。」
「あのね、忘れていたの。あたし、どうしてもお色直しの時に、紅を刷いてもらいたいと思ってたのに,それをいうのを忘れちゃったんで、大急ぎでかけつけたの。ねえお姉さん、ぜひその上へぼおっとなるほど紅さしてよ。るつ子、いままでお姉さんの着付けや、おしろいの手伝いしてきたでしょ。それで、紅のあるお姉さんの顔が好きだったのよ。ねえ、一生懸命かけつけてきたんだから、どうか私のいうこときいて頂戴。」
「どうもありがとう。やっぱりるつ子ちゃんはいい人ね。こんなに心配してくれるなんて、なみの人には出来ないことだわね。」
「だったらお姉さん、すぐ紅さしてよ。」
「でもねえ、今日は先生に一切お任せしてあるんだから、そんなこと失礼よ。」
「だったら、先生にお願いするわ。ねえ先生、私お化粧のことも、結婚式での仕来りもわからないんですけど、妹のカンなんです。お色直しに着物の色もかえるんだから顔の色もうんと派手にかえたら、鮮やかだと思うんです。にこにこしたみたいな顔に作っちゃいけませんか。あたし、お母さんがふだん、お姉さんの笑い顔をみると喜ぶの知ってるんです。」
「そんなに一生懸命にねえ。じゃ、やってみましょうか。お嫁さんの顔はあまり赤くしないんですが、ま、もうお色直しだからいいかもしれませんね。」
鏡に向かせ、自分も鏡の中の姉の顔をみつめながら、先生は紅をさした。さっと生気が漂って、姉の目はうるおっていくようにみえた。
「もっと赤くして、もっと。」
「そうね、あなたはよく知ってらしたのね。お姉さんのお顔、私の思ったより力のある顔だったんですね。こんなに紅さしても、下品にならない。でも、眉をちょっと変えましょうか。」
姉は鏡の中でにこりと笑った。るつ子は気がすんだ。媒酌の奥さまが来て、姉の手をひいた。藤色の地に胸まで咲かせたぼたんの花をゆらりとゆらせて、姉は立っていった。
「お姉さん、お母さんのほうをみて笑ってあげて頂戴。」
「ええ。忘れないわ、るつちゃん。」
ああよかった、と思った。
(幸田文『きもの』新潮文庫 128pより)
大変なお気に入りになった。
きものの好き嫌いを軸にして、事物の捉え方を決めて行く主人公の「るつ子」と、一緒に行きているような、見守っているような気持ちになる。もしかしたら語り手は「るつ子」なのだけど、私の視点は「おばあさん」と「るつ子」を行ったり来たりしていたのかもしれない。
成長の過程で性格や考え方の相違から気持ちの齟齬なんかを持ちつつも、家族に対する愛情は決して失う事がない。家族のうち最年少の「るつ子」と最年長の「おばあさん」のふたりが、家族を束ねているのが心地よい。無条件の愛情。理由は家族である、というだけの。もちろん、他の、父や母や、兄、姉二人それぞれがそれぞれの役割を果たしているからこそなのだけれど。
読み進みながら、「るつ子」が獲得していく <目> を、一緒に与えられているような感覚で読み進んだ。
自伝的小説と言われており、家族構成などは違えど、「るつ子」はほぼ著者自身と見られている。
ものすごくよく見て、感じている。家族の一挙手一投足や、布の手触りや、空気。
世界にはこんなにも受動できるものが存在するのかと、自分の鈍さを思い知る。
全感覚を開いていることは、それだけ傷つく機会も増えるということで、とても危険なのに、るつ子はいつも、惜しまず全開なのだ。
さて、前置きが長くなってしまったが、なんということはないシーンなのに、読むうちにぽろぽろ涙が出て、これは絶対に抜き書きしておかなければならない、と思った箇所を転載する。
それは上の姉の結婚式の日のことだ。留守番を自ら引き受けて、家で必要な様々な用事に忙しく立ち働いているるつ子が、姉の支度をみたあと、完璧な着付と化粧でありながらも「どこか姉らしくない」「もっと美しくていい筈だ」と考えて、おしろいが白すぎて老けて冷たく見えるのでは、と思い至り、慌てて平服(どころか家事をしている格好)で式場に駆けつけ、姉のお色直しの控室に行く、そんなシーン。
(以下、本文より引用です)
「どうしたの、るつちゃん。そんななりのまんま慌てて。」
「あのね、忘れていたの。あたし、どうしてもお色直しの時に、紅を刷いてもらいたいと思ってたのに,それをいうのを忘れちゃったんで、大急ぎでかけつけたの。ねえお姉さん、ぜひその上へぼおっとなるほど紅さしてよ。るつ子、いままでお姉さんの着付けや、おしろいの手伝いしてきたでしょ。それで、紅のあるお姉さんの顔が好きだったのよ。ねえ、一生懸命かけつけてきたんだから、どうか私のいうこときいて頂戴。」
「どうもありがとう。やっぱりるつ子ちゃんはいい人ね。こんなに心配してくれるなんて、なみの人には出来ないことだわね。」
「だったらお姉さん、すぐ紅さしてよ。」
「でもねえ、今日は先生に一切お任せしてあるんだから、そんなこと失礼よ。」
「だったら、先生にお願いするわ。ねえ先生、私お化粧のことも、結婚式での仕来りもわからないんですけど、妹のカンなんです。お色直しに着物の色もかえるんだから顔の色もうんと派手にかえたら、鮮やかだと思うんです。にこにこしたみたいな顔に作っちゃいけませんか。あたし、お母さんがふだん、お姉さんの笑い顔をみると喜ぶの知ってるんです。」
「そんなに一生懸命にねえ。じゃ、やってみましょうか。お嫁さんの顔はあまり赤くしないんですが、ま、もうお色直しだからいいかもしれませんね。」
鏡に向かせ、自分も鏡の中の姉の顔をみつめながら、先生は紅をさした。さっと生気が漂って、姉の目はうるおっていくようにみえた。
「もっと赤くして、もっと。」
「そうね、あなたはよく知ってらしたのね。お姉さんのお顔、私の思ったより力のある顔だったんですね。こんなに紅さしても、下品にならない。でも、眉をちょっと変えましょうか。」
姉は鏡の中でにこりと笑った。るつ子は気がすんだ。媒酌の奥さまが来て、姉の手をひいた。藤色の地に胸まで咲かせたぼたんの花をゆらりとゆらせて、姉は立っていった。
「お姉さん、お母さんのほうをみて笑ってあげて頂戴。」
「ええ。忘れないわ、るつちゃん。」
ああよかった、と思った。
(幸田文『きもの』新潮文庫 128pより)