なにをみてもなにかをおもいだす(2008.6)原動力としての怒り(2008.6)

2008年06月28日

会話



いま読んでいる本(『白蛇教異端審問』桐野夏生)のエッセイに、カナダ出身の女性が「会話というものは、テニスのようにする」と言ったことに驚いた、とあった。
会話がよく例えられるのは「キャッチボール」だが、それは日本での感覚らしい。
「会話が、いやコミュニケーションが、かように丁々発止のゲーム性を帯びたものだという認識は、日本人にはあまりないのではないだろうか。」(同上)

会話といえば、演劇でも「会話になってない」という常套句のような感想がある。
それを見る度、「会話」ってなんだろう?と思う。
もしくは、この人(アンケートを書いた人)の思う「会話」とはなんなのかと。
(確か大学生の頃は、モノローグ(独白)とダイアローグ(対話)とを区別して感想を書いてる人が多かった)
2001年に書いた文章の一部を引用する。(全文はテキスト=演劇論・ノートというコーナーの『魂としての演劇論』の中にある「アナタニナリタイ=text boxingという演劇」です)

以前「役者はダンサーであり、シンガーであるべきだ」といったのはここにあります。そのダンサー・シンガーの姿は今の私にはボクサーに近く感じます。対戦相手に合った戦略を練り、その為に練習して減量 して身体を作り試合に臨む。リングの上に上がったら、出てくるのはこれまでやってきた身振り=過去のボクサー達の、ももちろん含めた上での。余計なものを削ぎ落として、相手の方に自分を投げ出し惜しみなく武器を出し合うボクサーになりたい。創さんが「言葉が武器であることを剥きだしにして彼女に襲いかかってゆく(『繁く咲く道』)」と書いた通り、言語は武器と成りえます。それも圧倒的な練習量に裏打ちされた確信に押しだされるようにして(『繁く咲く道』)殴り合うような、殴り合った後は、結果はどうあれ本気で戦った後なら個人に対する憎しみなんてなく、対戦相手に「ありがとうございました」と言ってしまうような、それはケンカといっていい程の議論のあとに訪れるものに似ています。どっちが言ったかなんて途中からわからなくなって、でもそんなことどうでもよくなって、いい会話ができるか(いい試合ができるか)が勝負という。演劇のライブも、こうありたいと思います。

この時のわたしは、会話について考えていたようだ、キャッチボールではなく、ボクシングに喩えて。
舞台上では言語は武器になりうることを重々承知したうえで、会話をしなければならない。練習してきたものは出る、やってこなかったものは出ない。そういうシンプルな構造の、リング。今読んでも、それは間違っていないと思う。
しばらく書いて来た6月公演『Bon Voyage!』のひとつのシーンについての感覚の記録もそれに繋がる。
シーンとしては、お互いの気持を思いやる静かな場面なのだけど。
「お互いのやりたいことがあり、相手の出方を見て、いかに応えるか」というのは戦略の話で、戦闘であったと思う。それは役同士としてだけでなく、操縦者である役者同士としても。だからお互いあんまり打ち合わせしなかったのかな。たぶん松井さん(演出補)もキャッチボールではなく、戦闘を見ようとしたんだと思う。なんかの時に「引いた方が役者として負けですから」って言ってたのを思い出した。
それで、「圧倒的な練習量に裏打ちされた確信に押し出されるようにして」(横田創『繁く咲く道』)リングの上に出て行く時には、緊張感はあるけど無駄な力は抜けてるんだ。美子の泣きじゃくる声を聞きながら一心に願っている美貴は客席通路のカーテンの向こう、心の中で父さんを呼びながら、自分の手を、カーテンをきつくきつく握り締めていた。でもそこから呼び出される直前、力は抜けて、呼ばれるままにまっすぐ歩き出す。
それまで「やらなきゃ」「言わなきゃ」って気持が強かったときは力が入ってて手をぎゅっと握ったまま始めてたのが、ある日ふっと力が抜けて、手を握りしめずに舞台に上がれた稽古があった。それが最初になにかを掴んだと思えた日。たぶん、ある意味諦めたんだと思う、もういまさらじたばたしても仕方ないという諦め。試合前のボクサーさながらじゃないか。ちゃんと相手の様子を見る為には、自分から離れなくてはいけない。この頃のわたしが盛んに「アナタニナリタイ」と表現したのは、言語になりたいということだったけれど、いま言い換えるなら、この場を支配する空気に同調する、ということ。当時「言語」は「自分の台詞」という狭義の意味合いで使っていたけれど、自分の身体の身振りを全て含んだ「言語」であるし、舞台上にいる共演者や、明かりや、音や、空気すべての身振りすら内包した「言語」、世界そのものの身振り。そこに身体を委ねるということだったんじゃないかな。(ここでは客席の問題はひとまず置いとかせてもらう)【Air】というのが私の企画する公演の大きな主題であり、いまもわたしのサイトのタイトルでもあるのだけれど、この時からわたしは、Air=空気、雰囲気というものに魅かれていたんだ。

【Air/2001】で上演した『繁く咲く道』という戯曲は坂戸真紀子さんとわたしの「彼女」と「わたし」しか出て来ない二人芝居で、まさにこのボクシングとしての会話、という切り口から演出して、上演した。
『Bon Voyage!』の間には全く気づかなかったけど、私の身体はこのシーンの経験を思い出していたみたいだ。それでふっと力を抜くことができたのだろう。
ここでは主に「怒り」がわたしの感情を支配していて、まさに凶器であることを自覚して会話するのだけれど・・・ああ、そうだ。この戯曲は裁判の公判であって、舞台上に出ているのはふたりで、聞かせてる相手はもちろんもう一人なのだけど、それでも他に人が存在する(裁判長に向けて証言する)という設定だったっけ。そうでありながらあくまで闘う相手は坂戸さん演じる「彼女」なのだけれど。
・・・同じか。『Bon Voyage!』は目線を外さずに話すふたりきりのシーンだったけど、やっぱり見ているものがいるとわかってたもの。見ていたのは、世界とか運命とか呼ばれるような、そんなものだったけれど。


だが、「役者はダンサーであり、シンガーであるべきだ」については、今はそうは言わない。だってそれはもっと自然に、言うまでもなく、そうであると思うから。ちゃんと俳優であろうとする人は当然の如く、踊る人や歌う人と同質の意識を持って舞台に上がってると思えるから。説得力のある身体(立ち姿であり動作)・説得力のある声。それをダンサーやシンガーと同質に扱えるくらいの意識と訓練が必要なのは、当然のことだから。

自分がバンドのフロントに立って語ったり歌ったりするとは夢にも思わない頃に書いた言葉だ。
昭和精吾の語りを手本に考えて、わたしはバンドのヴォーカルであっても、役者の仕事の一環だと思えた。
そこに区別をしていないから、「女囚702号」という役を演じるこもだまりとしてライブをしている。
昭和さんが詩の側に行ってまた昭和精吾に戻って来る、詩とトークとの/役と昭和精吾との「際」が一番エキサイティング。
第十三号雑居房のMCでもそういうのがいいと思うから敢えてMCは「こもだまり」で話すようにしている。
いつになったら昭和精吾に追いつけるだろうか?


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mari_air at 05:23│Comments(0)TrackBack(0)読書 | 演劇・舞台

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