いま読んでいる本(『白蛇教異端審問』桐野夏生)は、保さんが5/22のライブの時に貸してくれたもの。
「読んでる暇ある?」と心遣いを見せてくれた保さんに、実際他の本も読んでいたし「もう台詞も入ってたし、大丈夫」と言って受け取った。が、25のライブも終えた後、さして間を置かずに怒濤の通しまくり稽古に切り替わって身体より頭がてんてこ舞いだったので、手つかずのままいた。
公演が終わってすぐ読み始めたが、最初のショート・コラムの文体がしっくり来なくて、もう一冊待たせてる本を先に読んで、改めて手に取った。
数日前には「この強い女性の言葉は今読めない」と感じた文章だったが、今は読み易い。
何度か引用している、大江さんのいうところの「読書のタイミング」が、まさしく今だったようだ。


(7/7追記)質問があったので、大江さんの小説の該当箇所を再度引用します。
本とジャストミートするかたちで出会うことは、読む当人がなしとげる仕業というほかないんだね。選び方もあるし、時期もある。たまたま貰った本にジャストミートすることもあるし、自分が買って来た本で書棚にしまっておいたのが、ある日、ということもある。(新潮文庫『燃え上がる緑の木』 第三部 P.21)

コラムの中に、お母様を亡くした時のことが書かれており、それも今ドンピシャだと感じる。
その文章に触発されて数日前「なにをみてもなにかをおもいだす」という文章を書いたけれど、それはまだ公開していない(ちなみにこの言葉は、横田創の『亡霊カフェ』という文章の一文で、そこでの表記は「何を見ても何かを思い出す」だが、音として想起したので、ひらがなになっている)。
読めばしゃべりたく(書きたく)なり、書きながら続きが読みたい文章。
大江さんの文章以来の興奮じゃないだろうか。
坂本龍一と村上龍の対談を読んだときもこんな感じになったかな(『EV.Caf´e』)。
分野の区別でなく、「あっ」と思った文に出会うとどこかに写しておくことにしている。
小説の時でも、対談やエッセイの時でも、詩でも、台詞でも、誰かが口にしたことでも。
そうやってクリップしておきたくなる言葉があっても、それによってしゃべりたく(書きたく)なるとは限らない。いまは公演の製作日誌を書いてた余波で手が饒舌なのか、もう眠ろうと思ってベッドで本を読んでいると、興奮してリビングに戻り、パソコンにメモし、こんなことをしてる始末。
いま早急に、かつ慎重に考えるべきことがふたつあって緊張してるせいもあるだろう。


桐野夏生の小説は砂々良の常連さんTさんが貸してくれた『魂萌え!』しか読んでおらず、それがあまりしっくり来なかったので余計に、この本が今これだけ自分にヒットしたことが驚きだ。


というわけでもう酷い時間なのだがまだ眠れない。幸い明日は砂々良だけだからよしとする。
「早寝早起きとはいかないまでも、生活を立て直そう。日が昇るまで起きてるのはやめよう」と心に誓ったばかりのはずだが?

(7/5追伸)
ショート・コラム、エッセイ、短編小説、表題の「白蛇教異端審問」と通して読んでみての感想。
この作家さんのは、小説よりも、コラムとかエッセイの方が好きだ。小説も決して悪くないけれど、硬質すぎるように感じる、少なくとも今のわたしには。