文庫版 姑獲鳥の夏 (講談社文庫)なつみちゃんも毬子ちゃんも面白いというので、ついに京極夏彦の「百鬼夜行シリーズ」なるものを読んでみた。

第一作目の『姑獲鳥の夏』。
堤真一主演で映画化され、結構話題になった(わたしの回りでは着物のことで話題にあがった)ので知ってる人は多いが、原作のあまりの分厚さに手を出さない人が多かったらしい。島田荘司読んでたら分厚い本なんか恐くないさ!


推理力と行動力に長けた中禅寺秋彦の為すことを、友人の関口巽が語るというスタイル、島田荘司の御手洗シリーズを見るようだ(本の分厚さもさることながら)。
ちなみに中禅寺さんは御手洗さんよりもさらに出し惜しみ型なので、友人で私立探偵の榎木津礼二郎が中盤のストーリー展開を進める。

御手洗さんはもと占星術師で、現在脳科学者(趣味が探偵)。
中禅寺さんの本職がは神主(宮司)で副業として憑物落としの拝み屋、さらに古書肆「京極堂」の店主(ゆえにしばしば屋号の「京極堂」で呼ばれる)。
風貌も、痩身で長身、というあたりで似たイメージだ。

石岡さんが記憶喪失時に巻き込まれた事件から救ったのが御手洗さんで、
関口さんが学生時代に患った重度の鬱(+後年巻き込まれた事件)から救ったのが京極堂、という合致はおそらく敢えてのパロディなのだろう。
御手洗さんの、石岡さんを甘やかして助けはしないが最終的には見捨てないといった態度も、京極堂の関口さんへの態度に似ている。
おかげで御手洗シリーズファンの私は入り込みやすかった。

妖怪が出て来ると思いきや、妖怪そのものは登場しない。
妖怪になぞらえて起きる事件を「憑物落とし」として解決する。
憑かれている人間を、言語によって解放するというもの。

物語の巧妙さはもちろん、謎解きの爽快感は御手洗さんに劣らないし、京極堂の人間性(余計な干渉はしないが、関わってしまったなら出来るだけ救いたいという態度)も、榎木津さんの自由奔放な言動もたいへん気に入ったので、しばらくこのシリーズを読んでみようと思う。


登場人物についてはwiki該当ページをご参照いただくとわかりやすいかと。

気に入ったところを引用しておく。

「恐山にはイタコという民間宗教者が大勢いる。これは口寄せ ー 所謂降霊を行うが、彼女達はその殆どが視力に障害を持っている。視力障害が遺伝するものかどうかは解らないが、とにかくあれだけ多くの視力障害者が同じ職業に就くというのは不自然じゃないか。そうしてみると、霊能者と呼ばれる人達の中には、視力に障害を持った人が実に多いことに気がつくわけだ。柳田翁の論文に一つ目小僧はその昔の神職者の零落したイメエジではないかというのがある。彼は、神職者の片目を潰すという民族儀礼の存在の可能性を示唆しているのだが、僕はその辺もこうした生理に由来しているのではないかとも考えている」(京極夏彦『姑獲鳥の夏』講談社文庫 p.169より)


「何を蒼冷めた顔してるんだ? 思い出したのかい? 当時の君の ー あの粘膜のような感性を」
京極堂は抑揚のない調子でそういった。
 この男はいつもそうなのだ。いつだって何もかも知っているような顔をして私の中にずけずけと入ってくる。その実、この男が何を知っているのか私には見当もつかないし、たぶん彼は私のことなど何も知らないのだ。でも、何でも知っているというポオズは、底なしの海の上に浮かぶ板切れの上に踏ん張っているような私の感性には至極魅力的だ。だから私はある時期からこの男に自分の一部を委ねてしまっているのだ。その正否は別にして、この男が私という人間のぼやけた輪郭をある程度明確にしてくれる。不細工でぎこちない、寄せ集めのコミュニケーションしか持てなかった私にとって、それはとても楽な選択だったし、この理屈の固まりの如き無愛想な友人は、彼岸から此岸に無理矢理私を引っ張り戻した責任をそういう形で取っているのだ。(京極夏彦『姑獲鳥の夏』講談社文庫 p.314より)



そうそう、この片目についての記述で、ゾンロリの「片目の司会者」の方向性が明確になったんだった。