『月想』のことを書いてて思い出したので、ちらと当時の日誌を読んだら、今日の稽古に関連することがあったので、長いけれどまるっと引用しておく。
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「敗者には何もやるな」というのは、カフェのオーナーであるクミコが深夜、一人で片付けしているとこころに、ずっと年上の恋人チャックがやってきてふたりきりで会話している、そんな20分ほどのシーンの、稽古。

8月10日(木)の「敗者には何もやるな」の稽古
2000/08/12 こもだまり記

参加者=こもだまり イッキ
サシでの稽古は3回目。イッキさんは「ふたりだとなんか照れるよね」と言う。なのでなんだかんだ話して変な緊張をほぐしてからテイクに入る。
今日は3テイクした。

2テイク目で新しい発見があった。ベットと高速道路とどっちが危険かという話題の時、クミコとチャックの力関係がいったりきたりしてる感じが初めてして、「ああ、こういうことだったんだね」と話した。
初めて、というのは、「そうだと思っていたけどできなかった」のではなく、初演の稽古の時から今日まで気付かないでいたけれど、今日ふとそうなって、しっくりきた、という意味。
戯曲の、なんてことないさりげない、さらっと流れてしまいがちな部分にこそ(神村くん流に言えば)「まだ宝物は隠れてるはず」なのだ。

テイクのあと、感触を言語化することを今回の稽古場では大事にしている。自分に何が起きてたか、相手に何が起きてたか、ひいてはここで何が起きてたかを、振り返って言葉にする。「それぞれの身体が実験場だ」と八尾さんが言ったとおり、誰かがそのテイクでしたことはその人個人のものではなく、その場にいる全ての人のものなのだ。だから、感触を口にしないことは言ってみれば「ひとりじめ」な訳で、ルール違反だ。だから変な作業ではあるけれど、今やっててどんなことを感じたかをあとからみんなで話す。
「へえー、そんな風に感じたんだ」と思うこともあるし「私もそう思ってた!」「そういう風に思ってるように見えてた!」「こういう風に見えたよ」と、反応されたりする。それを聞いてまた戯曲をさらに味わえるようになったりする。
演劇を見る/することは読書にとてもよく似ている、というより、読書そのものだと最近思う。ひとりでする読書ではなくて、他者の身体まで使ってする贅沢な読書。みんなの身体を実験場にして読書すると、文字として読むだけでは気付かなかった宝物が発掘されたりする。というより、そうやって読書するのが一番読める、という人を「演劇人」と私は呼びたい。
稽古場に来る前にするひとりの読書ももちろんある。役者それぞれが読み込んでいるかどうかはテイクをすると正直に出てしまう。逆にちゃんと理解していれば本当に自然に、役のその人として言葉を発しているように見える。
かといって正解が一個あるのではないので、一度いい感じの時があったからっていつも同じようにそのセリフを言ったらオカシイ、それは会話だから。共演者との戦いだったりセッションだから、相手や周りの環境がどうかによってそれはオートマチックに変わる、はずだ。それが「【Air/1999】(前回公演)はライブだ!」と明言してやりたかったど真ん中のことで、今回ももちろんその延長線上にある。

イッキさんのあるセリフの言い方が、マイナーコードからメジャーコードに大きく変化してきた所があったのでつっこんだら、やっぱりそれを言うときの感触が最初のころと違ってきてるのだそうだ。「クミコがその前に言ってることをよーく聞いてたら、いとおしい気持ちになって、そのセリフを言うときにはやる気が湧いてきてるんだよね、最近」なのだそうだ。
ふたりのシーンなんて分かりやすいけれど、相手に「ここはこういう風にやってほしい」「こういうのはどう?」とテイクのあとに僭越ながらだけれど口にすることがある。それは決してダメ出しなんてものではなくて、「私の読書ではこういう風に読めてるんだけど、これどう?」という共同作業の一貫としての提案。相手役に対しての「こういう人であってほしい」という祈りのようなものを口にすることなのだ。普段の生活ではそこまでいちいちつっつかないものかもしれないけど、日常生活でこの演劇の稽古のようにつっついたとしたら、とても濃密な関係だろうと想像できる。稽古場で役者達はそのくらい濃密に関係しているということか。