去年、幸田文の「着物」を読んで絶賛したんだけれど、その流れで今年、娘さんの青木玉さんが書いた「幸田文の箪笥の引き出し」を読んでおもしろくて、いまは「流れる」を読んでる。wingの香里さんも「いいですよ」って言ってた本。
まだ途中なんだけど、おもしろい。
でも不思議とずーっと夜みたいな気分になる。
夜の記述も確かにあるけれど、ずっと夜ってわけでもないのに。
大江健三郎の初期の作品も、モノクロのイメージしか浮かんでこないのだけど、それとも違う。
灯りの暗さを感じてるみたいだ。
まだ途中なんだけど、おもしろい。
でも不思議とずーっと夜みたいな気分になる。
夜の記述も確かにあるけれど、ずっと夜ってわけでもないのに。
大江健三郎の初期の作品も、モノクロのイメージしか浮かんでこないのだけど、それとも違う。
灯りの暗さを感じてるみたいだ。
この世界の人はどうにも着物のことは気になるらしい。だから着物の値段にはへんな鈍感さがある。同じ金嵩(かねがさ)でも着物の金嵩と他のものの金嵩とは違う。たとえば五万円として考えてみても、着物の五万はへっちゃらだけれど、鋸山事件を穏便に済ませようとして融通してきた五万は眼ひき袖ひきの大金なのである。そのうえ着物の金嵩も買うときは四五割がた廉く感じて買い、支払うときは高く感じて支払う。染香のような海千山千の古つわものでも着物を買うとなると、金額のことよりも着物そのものがえらく拡がって考えられ、金額のほうはつぼまって見えるらしい。けれども着物ができてきて着てしまうと、とたんに着物のほうはしぼんで金額は膨張して見えてくるのだからつらい。着物の値段は芸妓を混沌とさせるもののようである。承知していて染香もひっかかるのだし、承知して呉服屋も儲けるのである。(幸田文『流れる』より)
芸者の置屋に女中として住み込んだ主人公の視点から書かれた物語で、幸田文の実体験が下敷きになっているらしい。
引用した上の一文は、お正月用に芸妓が着物を新調するのしないのというくだり。
わたしは買って後悔することはないけれど、着物を羽織ってほわーっとなるときの気持はよくわかる。
しかしわたしは花柳界の人ではない(仕事用じゃない)ので、ほわーっとなるのはいいけれど改めなくてはと身につまされる思いだが、いつの時代も女性ってこういうものなのかしら、とも思う。
芸者の置屋に女中として住み込んだ主人公の視点から書かれた物語で、幸田文の実体験が下敷きになっているらしい。
引用した上の一文は、お正月用に芸妓が着物を新調するのしないのというくだり。
わたしは買って後悔することはないけれど、着物を羽織ってほわーっとなるときの気持はよくわかる。
しかしわたしは花柳界の人ではない(仕事用じゃない)ので、ほわーっとなるのはいいけれど改めなくてはと身につまされる思いだが、いつの時代も女性ってこういうものなのかしら、とも思う。