「もし世界の終わりが明日だとしても 私は今日林檎の種子(たね)をまくだろう!」
寺山さんの戯曲の上演がラストシーンを迎え暗転すると、シーザー(現J・A・シィザー)の「1970年8月」が大音量でかかる。
真暗闇の中マッチを擦りながらの名乗りでよく使われる言葉なので、聞き覚えのあるかたも多いだろう。(たぶん6/9初日のA・P・B-Tokyoでも高野さんの声で聞けるんじゃないかな?)
てっきり寺山さんの言葉だと思っていたが、さすが名言蒐集家。
角川文庫『ポケットに名言を』(大和書房『青春の名言 心さびしい日のために』1968年の新版)の中で、ゲオルグ・ゲオルギウの言葉だと紹介していた。
それでさっきゲオルグさんて何者かしらと検索したら、なんと人違いだという記事を発見。
ゲオルギウさんも引用だったという、随分遠いところから来た言葉だったみたい。
そういえば昭和さん宅にある大江さんの色紙に書かれた一文も三好達治の引用だった。
誰の言葉であるかも知りたいけど、それを選び取ることこそセンス。
そしてやっぱり寺山さんのこの訳が一番美しい、というかかっこいい。
もし世界の終わりが明日だとしても 私は今日林檎の種子をまくだろう
「1970年8月」は『書を捨てよ、町へ出よう』のサントラに入っている。
この曲もかっこいい。
(追記)
他にも細かく解説したページが見つかったのでURLを載せておく。
結論は同じだが、引用元を詳しく知りたいという方はどうぞ。
molt-yuさん同様、開高健の色紙についても言及している。
http://www5f.biglobe.ne.jp/~tsuushin/sub3b.html
(柴田昭彦氏サイト ものがたり通信 「4.真実を求めて」)
寺山さんの戯曲の上演がラストシーンを迎え暗転すると、シーザー(現J・A・シィザー)の「1970年8月」が大音量でかかる。
真暗闇の中マッチを擦りながらの名乗りでよく使われる言葉なので、聞き覚えのあるかたも多いだろう。(たぶん6/9初日のA・P・B-Tokyoでも高野さんの声で聞けるんじゃないかな?)
てっきり寺山さんの言葉だと思っていたが、さすが名言蒐集家。
角川文庫『ポケットに名言を』(大和書房『青春の名言 心さびしい日のために』1968年の新版)の中で、ゲオルグ・ゲオルギウの言葉だと紹介していた。
それでさっきゲオルグさんて何者かしらと検索したら、なんと人違いだという記事を発見。
(前略)
寺山修司は
「もし世界の終わりが明日だとしても
私は今日リンゴの種子をまくだろう」という言葉を
ゲオルグ・ゲオルギウ(ルーマニアの共産党のリーダー)の言葉として
紹介しているが、これも間違いであるらしい。ゲオルギウという人物はルーマニア生まれの作家にもひとりいて
そっちと混同されるらしいのだ。
作家の名前はコンスタンチン・ビジル・ゲオルギウという。
作家のゲオルギウの小説「第二のチャンス」の日本語訳のなかに
マルチン・ルターの言葉として紹介されているのは
「たとえ世界の週末が明白であっても
自分は今日リンゴの木を植える」
ここで「明日」が「明白」になっているのは日本語の誤植であるらしい。
(後略)
(molt-yu氏blog もるとゆらじお「開高健の色紙」より)
http://nknk.exblog.jp/7538856/
ゲオルギウさんも引用だったという、随分遠いところから来た言葉だったみたい。
そういえば昭和さん宅にある大江さんの色紙に書かれた一文も三好達治の引用だった。
誰の言葉であるかも知りたいけど、それを選び取ることこそセンス。
そしてやっぱり寺山さんのこの訳が一番美しい、というかかっこいい。
もし世界の終わりが明日だとしても 私は今日林檎の種子をまくだろう
「1970年8月」は『書を捨てよ、町へ出よう』のサントラに入っている。
この曲もかっこいい。
(追記)
他にも細かく解説したページが見つかったのでURLを載せておく。
結論は同じだが、引用元を詳しく知りたいという方はどうぞ。
molt-yuさん同様、開高健の色紙についても言及している。
http://www5f.biglobe.ne.jp/~tsuushin/sub3b.html
(柴田昭彦氏サイト ものがたり通信 「4.真実を求めて」)
ありがとうございます。