常川さん「紅葉の生きている吸血鬼に対する気持って、恐怖?」
まり「いや、恐怖ではなく”わからないもの”だと思っています」
常「恐怖だったらおもしろいと思うんだよね。『鬼姫』をやったから余計にそう思うんだろうけど、絶対的な強さの紅葉が恐怖を感じる相手ってなったらさ」
ま「わからないものへのおそれって感情はありますね」

…って鬼姫の話題も、21日に出た。即答で話したからあとで改めて思い返して考えた。
(以下、長い割りにまとまらない思考メモになってしまったので、読んでもわからないかもしれません、ごめんなさい、と先に謝っておきます。)


今春の『鬼姫』再演の稽古期間中したtweetを振り返る。

「『鬼姫エピソード零』(『鬼姫』の一世代前の時代=『少女椿』の中に出てくる『鬼姫』の時代=紅葉が吸血鬼になりたての時代)について考えていて、大きな発見!ああッ!なんで気付かなかった?こっちのほうが絶対おもしろいのに!」


この時気付いたのは、紅葉が、自分の未知の種の吸血鬼がいることへの驚きについてだった。
留奈・耿之助・吸血鬼のみどりが紅葉に対して持つ驚きもまた同じ。
初演では、”違和感”で「お前達は、何だ?」と言ってた。今は違う。
この時の紅葉(エピソード零の紅葉なので便宜上「零紅葉」と呼びます)は、結構手強かった筈のサホの手下の吸血鬼達(「始めから死んでいた」「うまれてくることのできなかった子供達」)を皆殺しにしてきたところ。『鬼姫』でいえば、温羅を殺して、紅葉とふたりきりの最後の闘いをする段の蘭。そんな死闘を経て強くなったであろう自分が致命傷を与えたのに死なない吸血鬼へのおそれはある。でもサホに対してもつ感情とは違う。
人間あがり=死なない蘭を見た時の、うちの子たち(紅葉邸の吸血鬼たち)の感情は、笑う吸血鬼=留奈・耿之助に零紅葉が抱く感情と似ているかな。
サホのとこの吸血鬼だと思って喧嘩を売った(っていうか衝突事故よねこれ。お互い違う相手と闘ってたのに混ざっちゃったんだから)ら、なんか違う種類だったっていう・・・じゃあ去年の”違和感”てのもまんざら間違いじゃなかったんだ。死ぬ相手なら死なない自分の方が強いと思えるけど、死なない同士だとどうだろう。笑う吸血鬼達は違う世界の者だ(となんとなく分かる)から、やり過ごせばいいということで恐怖心が沸かないのかな。ぞっとはするけど、恐怖と違うって気がするのはなんでだろう。自分の世界のことだけで死ぬか生きるか、いっぱいいっぱいだからかな。

常川さんが言う「絶対的な強さ」には、実際の強さより零紅葉の感情が追いついてない気がする。実際戦闘力の面だって、死なないと思ってるからガードに重きを置いてない闘い方だし(だから蘭も零紅葉もやたら斬られる)。サホは自分と同じ種だとわかっている人。闘うべくして闘う相手だからやり過ごすという選択肢がない。


さらに、吸血鬼になったみどり(以下「鬼みどり」)は「笑う吸血鬼」とも違って「お化け」=サホ・紅葉の系列なのだとサホは告げる。花道の零紅葉は大混乱(笑)
でもね、わからないながらも見ていると、留奈・耿之助と鬼みどりの関係は、サホの所の吸血鬼達とサホの関係に似ているんじゃないかと気づく。違う種だと知っていながら、家族のように寄添って生きる。「吸血鬼になってあなた達と家族になれるなら、私はそれでもいいと思った。」という鬼みどりの言葉は、零紅葉の頭に残る。去年は自分のことで一杯だった零紅葉だけど、今年は留奈や耿之助が、生きていないのに動かされてるのも感じるし、愛おしいのに、だからこそ殺さなければならない鬼みどりのこともわかる。大島さんの蘭と、なっちの蘭が、わたしの中で生きている。もっと言えば去年の毬子のサホも、今年の東京の沙夜ちゃんのサホも、今まで出会った二度の『鬼姫』の中の吸血鬼達もいて、留奈・耿之助・鬼みどりまでちょっと入っちゃったみたいだしね、今世の紅葉はまあ、大所帯なの。

東京興行の打ち上げで、留奈役のまーむーが「今年の紅葉は留奈から見てかわいい」と言った。
何が影響しているのかはわからないけど、去年とは違って見えるんだって。
去年は『鬼姫』を知ってるお客様は極僅かだったろうし、共演者の中でも初演『鬼姫』体験してたのは数人で、ものすごいアウェイ感を感じてた。今年もお客様は知らないかたが多かろうが、共演者の殆どは『鬼姫』を経由しているという安心感があって、ということかもしれない。
いや今年の『鬼姫』を経て、紅葉自体が変質したのかもね。
結局『鬼姫』のあと、出演者紹介で「紅葉」の項を書くと言いながら書き上げられずにいるのは、書いたら終わっちゃうという寂しさと、(まだ続くと分かっていたから)完全に客観的になれなかったからだろう。大阪が終わったら書けるかもなー。

紅葉の話になるとどうも長くなる。
前にも書いたけど、紅葉は一年一緒にいるせいか他の役に比べて癒着度が高いようで、紅葉へのダメ出しって演技へのダメ出しというより、紅葉の生き方へのダメ出しみたいに聞こえるの。(ダメ出しって言うと悪いことばかりみたいね、あれって他に言い方ないのかしら?…アドバイス?)
ダメ出しもらって、また一からやり直せる(人生やり直せる)ってすごいよね。
他の役だってもちろんそうだけど、そんな風に考えたことなかった。

最後に『無限の住人』より引用。
斬っても再生する卍に対する人間の恐怖、同じように死なない者を初めて見た時の卍の感情、なにかと参考になった。

ケダモノはもちろん営みの中で死という現象を「知って」はいようが厄介なことにどの程度まで疵つけられれば自分が死ぬというその境目を知らん
手負いの獣の恐ろしさとは何だ? 自分の身すら気遣わぬ愚か者の恐ろしさだ
「死」はそれ(二字傍点)を受け入れた者の上から先にやってくる
(無限の住人 14-88幕)



あ、ちょっと新しいことが見えた気がする。
明日話してみよう。通し前だからぶっつけになるけど(笑)
常川さんに感謝!